人を知る

島崎大という造り手|子どもの頃の憧れが生涯かけての仕事になるまで~前編~

島崎大という造り手|子どもの頃の憧れが生涯かけての仕事になるまで~前編~

マンズワインの代表取締役社長・島崎大(以下、島崎)は、約35年にわたってワイン醸造の現場に立ってきた造り手でもあります。その醸造家としての歩みは「どうすれば日本で本当に良いワインを造れるのか」という問いに向き合い続けてきた軌跡でした。

少年時代の憧れから始まったワイン造りは、現実とのギャップや葛藤、そして海外での学びを経て、やがて確かな手応えと自信へと変わっていきます。この記事ではそんな島崎の造り手としての歩みと、紡ぎあげたワイン造りの思想を前後編に分けてご紹介します。

ワイン造りに憧れた中学生の頃が、すべての原点

—–ワインとの出会いは?
「中学の時に興味を持って、自分もワイン造りをしたいなと思った事が原点です。当時まだソムリエという職業は一般的でなく、サービスでワインに関わるというより、自分自身でワイン造りがしたいと思っていました」

島崎がワインと出会ったのは、なんと中学生の時にまで遡ります。両親がワイン頒布会の会員で、毎月自宅に届くブックレットを目にしたことがきっかけでした。

ブックレットに掲載されているボトルやエチケットの美しさ、そこに込められたワインの生産地や歴史、また造り手のストーリーに触れるにつれ、次第にワインの世界に魅せられていったのです。

それ以来、ワインへの興味は留まるところを知らず「ワインを造りたい」という想いは大学の学部選択にも影響を与えました。最終的には山梨大学工学部発酵生産学科に進学。日本では数少ない本格的にワインが学べる大学です。そこで、島崎は微生物の知識や醸造技術を学びました。

憧れを叶えるためにワイン造りの現場へ

—–マンズワインを志望された理由は?
「大手メーカーの中でマンズワインだけはワイン専業でした。必ずワイン造りに関われると考え、志望しました」

1983年、島崎は宿願だったワイン造りに携われるマンズワインに入社します。まずは仕込み担当として醸造の現場に配属され、早くも憧れのワイン造りに携わることとなりました。

初めての仕込みは、輸入された濃縮果汁原料を使ったワイン造り。そして秋になると山梨、長野、福島の産地で収穫された膨大な量の生ぶどうを使った、本格的なワイン造りが待っていました。

—–実際に現場に立ってみていかがでしたか?
「生果の仕込みは忙しい反面、充実感に満ちていましたね。発酵工程では日々出来上がりつつあるワインの香りに包まれ、幸せな気分でした」

少年の頃から抱いていた憧れが現実となったワイン造りの現場で、島崎は後のワイン造りの土台となる知識と経験を積んで行きました。しかし、全てが順風満帆というわけではありませんでした。島崎の想像していたワイン造りと実際の現場は少し異なっていたのです。

「宿命的風土論」が日本のワイン造りを阻んでいた

島崎が入社した当時の日本のワイン業界では「宿命的風土論」*が一般的でした。

宿命的風土論とは、いくら努力をしても日本の気候風土では良いぶどうができないため、コストをかけて日本でぶどう栽培に取り組むのは徒労という考え方を指します。日本ではワイン造りの中でも醸造技術が重視され、ぶどうづくりと一体になっていませんでした。

——当時は輸入原料を使ったワインも多くありましたね。
「輸入バルクワインをベースにしたものもあり、”自分がワインを造っている”という実感は持てなかったですね……」

島崎が親しんできた海外の著名産地のワイン造りと日本での現実にはギャップがあったのです。「自分でワインを造っているという感じがしない」という違和感は、後に日本のワイン造りをより良くしたいという想いにもつながっていきます。

*「宿命的風土論」:麻井宇介著「ワイン造りの思想」(2001年中央公論社)で著者によって提示された「銘醸地でなければ優れたワインはできない」という考え方。麻井は本書でこの考え方を批判した。

ボルドー大学への留学で「見えた」ものが、日本ワインへの新たな気づきに

1987年、現場を離れ品質管理を担当していた島崎大に転機が訪れます。フランス・ボルドー大学のワイン栽培醸造学研究所への留学です。

—–ボルドー大学留学で印象に残っているのは?
「ボルドーにしても、ブルゴーニュにしても、シャンパーニュにしても、放っておいてもいいぶどうが取れるような、恵まれた風土では全然ないという発見です」

「それぞれの土地で、ぶどう栽培のハンディキャップがあって、人間が努力と工夫を長い間重ねて、それが積み重なった結果として、ワインの銘醸地が生まれている事を実感しました」

この発見は「日本は気候風土がぶどう栽培、ワイン造りに向いていない」という島崎の認識を根底から揺るがす気づきでした。

島崎は1990年までボルドー大学で学び、ワイン醸造士の国家資格と利酒適性資格を取得します。帰国の途についた島崎は、最新のワイン造りの実務知識に加え、今後の日本でのワイン造りのヒントも携えていました。

「日本のぶどうでワインを造る」という新たな希望と可能性

—–留学を終えて帰国したときの気持ちは?
「日本でも、ぶどう栽培からきちんと取り組んで、いいものを造るための工夫を重ねれば、難しい風土でもいいぶどう、いいワインができる可能性がある、という希望を感じていました。」

帰国後、しばらくは東欧や南米の輸入ワインの立ち会い醸造を担当した島崎でしたが、ついに日本で育てられた欧州系品種を使ったワインを本格的に造る転機が訪れます。それが小諸ワイナリーです。当時は、ちょうど垣根仕立てのマンズレインカット栽培が確立し、小諸周辺でシャルドネやメルローの栽培が軌道に乗っている時期でした。

当時、ワインスクールと提携してスクールの生徒と共に小諸の欧州系ぶどうを育て、ワインを造る「小諸ワインアカデミー」というプロジェクトが小諸ワイナリーには存在しました。島崎はアカデミーの担当として、海外ワインに興味のある多くの生徒と「小諸のシャルドネで日本のモンラッシェ*を作ろう」という目標を掲げていました。

1993年。この実験的なプロジェクトで、島崎はこれまでの学びを実践で試す機会を得ます。

雨対策がされた自社圃場を舞台に、手間を惜しまずシャルドネを栽培。思い切った収量制限によるぶどう果の凝縮性向上を試み、さらにしっかり選果をした結果として生み出されたワインは、日本のぶどうでワインを造る希望へとつながりました。

—–できたワインはどうでしたか?
「できたワインは専門家を招いて輸入ワインと一緒にブラインドテイスティングしたのですが、小諸のシャルドネで造ったワインが、”結構良い輸入ワインと全然遜色のない味わいだ”という評価を勝ち取ったんです。」

「心のどこかでは、やはり日本のぶどうでは無理かもしれない、という思いもあったのですが、この評価は私自身も栽培担当者にも、”小諸のシャルドネでも、やり方次第で本当にモンラッシェの品質を目指せるんだ!”という大きな自信を与えてくれました。」

実験的なプロジェクトでしたが、栽培と醸造に飽くなき工夫を凝らすことで、予想以上のワイン品質の向上を見込めることがわかったのです。この後も、現場で造り手としての小さな成功体験をいくつも重ねることによって、島崎は日本での欧州ぶどう品種によるワイン造りに自信と確信を深めていくようになりました。

*モンラッシェ:フランス・ブルゴーニュ地方、コート・ド・ボーヌ地区の特級畑「モンラッシェ(Montrachet)」のシャルドネ種からつくられる、世界最高峰とも言われる白ワイン。

まとめ:憧れのワイン造りを実現する

2000年、島崎はプレミアム・ラインを作る社内プロジェクトメンバーに指名されます。ここでプロジェクトチームが掲げたブランドコンセプトは「世界の銘醸ワインと肩を並べる日本ワイン」という野心的なものでした。

このコンセプトこそ、ボルドーでの「人の努力と工夫により銘醸地が作られる」という学びと「日本のぶどうでも工夫次第でモンラッシェのような品質のワインが作れる」という確信が紡ぎ出した、真の日本のワイン造りの宣言でした。

翌2001年、マンズワインの最高級ブランド「ソラリス」が誕生します。

島崎は初代醸造責任者に就任して以後17年に渡り、良いぶどう・良いワインのために、雨対策の徹底・ぶどうの収量制限・徹底的な選果など、努力と工夫を重ねたワイン造りを実践していきます。

次回は、島崎大が目指すワイン、そのために大切にしているワイン造りの考えについて、詳しくご紹介します。

SHARE

MANNS WINE OFFICIAL